今回はコーヒーブレイクと題し、ちょっと脱線した昔の話です。
チームごとハンティング
日本国債JGB(Japanese Government Bonds)
その1
今から21年前の1996年10月11日の金曜日、忘れられない出来事が昨日の様に時々昨日の出来事のに様に思い出してくる。
今思えばサラリーマン人生の中で、一つの大きなターニングポイントであった。
残っていたから今があり、他方の選択をしていたら。。。
1995年、金融の自由化の名のもとに米系と英国系の日本国債取扱い専門証券会社の新規参入が認められた。
外資系の銀行を退職し、立ち上げのオープニングメンバーとして加わった。
それまでの日本国債の専門取引会社は日経の2社だけの独占体制でした。
しかし厳密に言えば2社体制でも、1社が約95%のシェアを持つ巨大(ガリバー)証券、でしたので1社独占と言っても過言ではなかったでしょう。
その競争のほとんどない無いマーケットに外資系の専門証券2社が参入してきたわけです。
独自の専用の10インチ程度の小型モニターを顧客DealerやTraderのDeskに置いて、日本国債の価格をリアルタイムで提供。
顧客はそこに表示されるレートをもとに、専用電話ラインで注文や取引をするわけである。
新規参入の米国、英国の2社はそれぞれ独自の特色を出し、顧客にアプローチしてマーケットシェアの拡大に努めていきました。
小回りのきく対応と大手外資証券を中心に取引を増大させ、翌年の前半になると海外参入組2社のシェアがそれぞれ約15%強ずつ、つまり2社合わせると30から35%にマーケットシェアを急拡大していきました。。
この時点で新規参入2社のマーケットシェアが約35%近くになったことにより、日系2社のシェアは合わせて約65%程度に減少。
しかし日本国債のトレーディング市場規模の拡大の結果、日系はマーケットシェアは落としても、総量では拡大していきました。
しかし2社の海外勢も1社だけでのマーケットシェアなら約15%にしかならず、引き続き60%超えのシェアを保持している日系の大手には1社では太刀打ちできない状況でありました。
そこで米系の証券会社は拡大戦略として、『15%では太刀打ちできないが、15%の英国系と合わせれば30~35%になる。さすれば勝負になるのではないか』と考え、行動を開始しました。
つまり、『英国系証券を買収すればマーケットシェアベースで2強の一翼になれるだろう』と考えた。
しかし、買収となると買収資金や時間が費やされ、買収自体が失敗する可能性もあります。。
そこで米系会社の上層部は考えた。
欲しいのはJGB部門だけ、それなら主要営業担当者をチームごとヘッドハンティングして自社に取り込めれば、簡単に30%のシェアになり得て、60%の大手と戦えるのではないかと。
費用は、ライバル会社から取り込む人間の新しい給与のギャランティーだけ。
そして、2社合わせて30%のマーケットシェアを40%に拡大出来れば、先方は50%台に減少。
さすれば、対等に勝負が出来き、存在感を発揮することができると。
その目的達成の為に米系証券の行動は早かった。
我々に対するアプローチが始まったのである。
相手の交渉窓口は部門のトップ、そのバックには支店長がいる。
こちらは部長が窓口になった。
ライバル会社の人間と公の場で会っているのを誰にも見られては良くはない。
秘密裏に港区高輪のホテル内のレストランなどでミーティングを重ねる事数回。
就労の条件やこちらから行くメンバーの選出が終了し、相手の会社では部署を離れたり、退職になるメンバーの人選などが行われた様だ。
10月に入り、契約条件も確定し8日に渋谷代官山のイタリアンレストランの奥の個室で移籍する全員が相手の支店長と合う事に。(因みに3年後、このイタリアンレストランで、自分の弟の披露宴が催されました)。(苦笑)
先方から2人、こちらからは移籍する6人が出席し契約書にサインし、スパークリングワインで乾杯。
この瞬間、ライバル会社への転職が正式に決まったのである。
会社への辞職願の提出は、3日後の10月11日金曜日の夕方と決まった。
やばい、今日の10月8日はかみさんのBirthdayでBirthday Cake を買って、早く帰宅するはずだったのだが。。。
翌9日は通常に業務をこなしたが、移籍する全員、もう気持はライバル会社だ。
翌日の10日の木曜日、日本は体育の日で休日、1日リフレッシュには良い休日になりそうだった。
実は水曜日の夜、この我々の移籍の話は先方の退職する予定の人から漏れていたのだ。
外国人がロンドンの仲間にこの移籍の情報を漏らしてしまっていたらしい。
日本が休日の木曜日、この事実がロンドン、ニューヨークと噂になっていたのだった。
我々はそうとも知らず休み明けの金曜日出社した。
出社すると直ぐ、顔色を変えた支店長に部長と私が呼ばれた。
いきなり、『ロンドンで君達がライバル会社に移ると言う噂が出ている。本当なのか?』
本当は夕方に話す予定だったのだが。。。
でも聞かれれば詳細を話すしかない。話が半日早まっただけなのだから。
『本当です。もう契約書にサインしました。私達はこの会社が嫌いになったのではなく、先方は我々の仕事に対して正当な評価をする約束をしてくれた』だからですと。
今の会社は形だけの契約で、インセンティブや細部の条件の正式な取決めが無かったのだ。
支店長はその日の夕方、つまり英国の金曜日の朝、ロンドンの上層部と対策を検討したようだった。
その結果、19時頃、移籍予定のメンバー全員が支店長室に呼ばれた。
この頃はまだ、携帯を持っていないメンバーもいた。
支店長が、『この週末、連絡が取れるところに必ず居て下さい。私はこの問題が解決したら会社を辞める事になると』と。
その2
日曜日の朝、案の定、支店長から電話が入った。
『今日の昼、西新橋のコンサルタント会社のオフィスに来て下さい、重要な話があるので』と。
昼に指定された会社に行った。
驚いた事に、行った先にはなんと。。。
そこにはロンドン在勤で、我々の部署の直属の英国人ヘッドが居たのだった。
大柄でひげを蓄えた、百数十キロの巨漢の彼が。
待てよ、一昨日の日本時間の金曜日の夕方、つまりロンドンの金曜日の朝に移籍の事実が彼の耳に入った訳だ。
今は、日曜の昼。
多分、土曜日の午前仲にロンドンを出発して、今朝成田に到着したようだ。
流石にみんなびっくり、事の重大さに改めて気がつかされた感じがした。
日本で1年が経ち、順調に伸ばしていたビジネスが無くなってしまうわけだから当然なのかもしれない。
そこで改めて、全体ミーティングと個別ミーティングの場が持たれ、経緯を説明した。
その結果、会社からはどうしても我々6人に残ってほしいと説得された。
しかし、既に我々は移籍先とは契約書を交わしている。
契約解除となれば違約金だって払わなければならないし、無視をすれば訴えられる事も。
しかし会社は、もしも訴訟になった場合の費用は全て負担すると。
英国系は少々のんびりしていて、契約書を我々と各自交わしていなかった為の代償が発生したのだ。
我々メンバーだけで話し合い、結果的には、米国系と契約したほぼ同じ条件で新たに契約して、会社に残る事となったのです。
既に日曜日の夜になっていた。お腹も減ってきた。さぁ、最後の仕事だ。
先方に契約を解除する旨のキャンセレーションFAXを送って終了。
そのはずだった。しかし、急遽ロンドンから来た上司は、
『FAXでのキャンセレーションは、相手が届いていないと言う可能性がある。
つまり、『知らないし、届いていない』と言う可能性も。
だから万全を期するためにも、『内容証明付き郵便を送る必要がある』と。
内容証明付き郵便ですと、先方が受け取り拒否しても公的にその拒否の事実が残る訳だ。
流石と言うか、抜け目がなかった。
早速、芝郵便局に郵便を持ちこみ、これで全て完了。
その後、遅めの夕飯をみんなでとり、帰ろうとすると、支店長が『今日は自宅には帰らないでくれ。家族があったり、どうしても自宅に帰らなければならないならば、ハイヤーを手配するので、逆に家族を呼んでくれ』と。
ハイヤーを手配してくれるだって?
そして用意してくれたホテルは帝国ホテルでした。
それもタワー棟のツインルームをシングルユーズで。
滅多に泊まれるホテルではない、みんなそう感じていたに違いない。
寝る前に仲間と頑張っていこうと勝ちどきをあげ、改めてビールで乾杯。
翌朝はホテルから歩いて全員で出社した。
職場に着くと、外線からの電話が鳴りっぱなし。
アシスタントの女性が電話に出るが、『我々は不在だと返答してくれ』と言っても、その後も昼までに何度も掛かってきたのであった。
その翌日から我々のチームは全員一丸で頑張り、シェアを伸ばしていき、部署の人員も増員していきました。
この1ヶ月間、長かったような短かったような時でした。
その中で当事者になれていたのも今思えば、人生の中で滅多に経験出来ない事を体験出来たと思ってます。
その1年後の秋、
1997年4大大手証券の一角が経営破たんにより廃業。
2000年はITバブル崩壊、
2001年9月アメリカ同時多発テロ、
2006年ライブドアショック、
そして9年前の2008年9月のリーマンショック、
2009年日経平均がバブル後最安値7054円を付け、
2010年ギリシャの債務問題からの欧州危機、
2013年長期金利の最低を記録し、
2016年には日銀のマイナス金利誘導による長期金利のマイナス等などなど。
2017年、1989年以来の日経が23000円台回復。
中身の濃い21年。これからの21年、小生は70台後半、
その時、世の中はどうなっているのだろうか?
己は如何しているのだろうか?
この年末年始、もう一度振り返って、また将来を考えたいと思ってます。